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岡山地方裁判所 昭和32年(わ)481号 判決

被告人 小川米市

明二六・一二・五生 鉄工業

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実の要旨は、「被告人は、笠岡市神島外浦三、二一三番地の三に木造トタン葺平屋建工場一棟(建坪一五坪)を所有して鉄工業を営んでいたが、同工場敷地の所有者伊与森定義からは、敷地の明渡を強く要求され、昭和三二年六月以降営業不振のため休業状態におちいり、工場閉鎖のやむなきにたち至つた結果、工員の解雇、工場の処分などに思いめぐらし、一方昭和二五年一二月神島化学工業株式会社神島工場を退職後も引続き居住していた住宅についても明渡を要求されてその転居先に困り、昭和三二年二月大平住宅相互株式会社と契約金額五〇万円の月払住宅建築契約を締結したが、基礎工事をしたのみで、家庭不和と資金難から建築中止の状態にあり、この窮状を打開しようと日夜懊悩していたものであるが、たまたま、富士火災海上保険株式会社と右工場建物一棟および機械器具一式について、保険金額一〇〇万円の火災保険契約を締結していたのを奇貨に、該工場に放火して右物件を焼失させたうえ、保険金を騙取しようと決意し、昭和三二年七月一六日午前零時三〇分頃、同工場内事務所にいたり、工場と事務所の仕切りの板壁に接着して置いてあつた硬質ビニールの切屑の入れてあつた木箱の上に機械油などの浸みた機械掃除用雑布を置き、これに燐寸をもつて火を放ち、附近に置いてあつた応接用の机椅子および前記板壁などに燃え移らせ、よつて、保険に付した前記工場一棟を全焼させてこれを焼燬したものである」というにある。

そこで証拠によりこれを審案すると(この判決で月日のみを示すのは、昭和三二年のそれを指す)右七月十六日午前二時過頃に前記工場事務室附近から出火し、該工場が火災によつて全焼したこと、司法警察員の実況見分したところによると、火災の原因としては、とくに漏電および自然発火によるものと認めるに足りる形跡は存しないが、放火によるものと断定するに足りる形跡もまた認められなかつたことは、七月一六日附および七月三一日附各実況見分調書の記載によつて明らかなところである。

よつて右火災は被告人の放火によるものであるかどうかについて、検察官主張の本件動機その他被告人の司法警察員または検察官に対する供述調書等の証拠を順次検討する。

一、本件犯行の動機について、

(一)  本件火災当時における被告人の家族、資産、および債務などについて、

被告人の検察官に対する八月二六日附供述調書、第二回公判調書中の証人小川玉代の供述記載、証人内山理の尋問調書および同人作成の鑑定書謄本の各記載によると、当時における被告人の家族は、その肩書住居である神島化学工業株式会社社宅に同居している、妻玉代(当時五四年)六女京子(当二一年、家事手伝)次男張平(当時一五年、中学三年生)、および七女久恵(当時一一年、小学生)の四名で、そのうち妻玉代が住居地において、ヤクルトの販売配達などをして月収約二五、〇〇〇円の収益をあげているほかは、他に家計を助ける者はなく、長男博美(当時二九年)はすでに別居してパチンコ店を経営しており、家計もまた別になつていた。しかし、被告人の資産としては、本件火災によつて焼失した工場建物とこれに設備された機械器具類があり、他に預金なども殆んどなく、右工場敷地および住居も後述のとおり、いずれも他から賃借していたものであるが、右工場建物は、木造亜鉛鉄板葺平屋建(建坪一五、五坪)で時価二一五、七〇〇円相当と評価され、右機械器具類は、時価六〇六、〇〇〇円相当と評価されるほどの財産であつたことが認められる。

次に、被告人の当時の債務としては、右の証拠のほか、証人東昇、同渡辺テルヨ、同田中悦子、同鷹家光夫の各尋問調書の記載によると、

(1)  昭和三一年九月五日、金融業を営む東昇から、前記機械類を担保として、一五〇、〇〇〇円を返還期限六ヶ月の約定で借り受け、同三二年五月末頃、そのうち、五〇、〇〇〇円を弁済し、残金一〇〇、〇〇〇円については、利息を支払つて、一ヶ月毎に延期してもらつていたこと。

(2)  笠岡市の機械店に対し四四、〇〇〇円の未払金があつたこと。

(3)  同二七年一〇月一日当時被告人方工場の従業員であつた竹内長太郎から四〇、〇〇〇円を借用し、その後一部弁済をしたが本件当時なお八、〇〇〇円の残金があつたこと。

(4)  同三二年七月七日中国石油笠岡支店から、カーバイト二罐を買い受け、その代金二、六〇〇円が未払になつていたこと。

(5)  近在で食料品店を経営する田中悦子から野菜、乾物などの掛買をしていたが、支払をしないため、掛売りを拒絶され、本件当時未払金が合計三四、三五二円に達していたこと。

(6)  六、七年以前に、被告人の娘が嫁いだ際、その衣裳を呉服商渡辺テルヨ方に注文したが、本件当時迄その代金三八、〇〇〇円の支払をしていないこと。

などが認められ、以上合計すると、被告人は本件当時合計三二六、九五二円余りの債務を負担していたことになるが、これを仔細に検討すると、右(1)の債務については、利子の支払に延滞はなく、債権者も金融業者の常として、保証人もあり、担保物の提供も受けているところから、毎月の延期の交渉にもその都度応じており、とくに厳重な督促を受けたような事実も存しない。同(2)の債務は取引上のものであることが窺われるし、また(3)および(4)の債務も少額であつて、いずれもとくに問題とするに足りない。次に、(5)および(6)の債務についても支払の督促を受けていたことはあるにしても、前者はたんなる日用品の買掛金債務であり、後者は、すでに六、七年以前からのものであつて、いずれにしても全額を一括支払わなければならないほどのものとは認められない。

しかして、前記のとおり、被告人の妻は、当時月額二五、〇〇〇円程度の収益をあげており、これのみでも被告人方の家計を維持することが可能であるうえ、前記のとおり、被告人にとつて、唯一の財産ではあるけれども、当時時価合計八二一、七〇〇円相当の工場、機械などを所有していた被告人において、以上の内容の債務を負担していたからといつて、これだけで被告人を本件公訴事実のような放火の決意にまで導いた原因とするのには根拠が十分とはいわれない。

(二)  住宅の明渡を求められていた事情について、

次に、被告人は、大正一〇年頃、神島化学工業株式会社に工員として入社し、昭和二五年定年で退職する迄、引続き三〇年にわたり、同会社に勤務し、その間技術優秀者として二、三度表彰を受けたこともあり、右退職当時は職長の地位にあつたものであるが、在職当時から同会社の社宅である現住居を使用して現在に及んでいることは被告人の検察官に対する八月二六日附供述調書および証人渡辺重次郎の尋問調書の各記載によつて、明らかなところである。そうして、右各証拠と証人藤江立馬の尋問調書の記載を綜合すると、同会社の社宅規則には、社宅は、退職後一ヶ月以内に明渡さなければならない旨定められてはいるけれども、右期間経過後も明渡をしない者も多数あり、そのため、社宅の不足を告げるにいたつたので昭和三二年春頃、被告人を含む該当者全員が呼出され、係員から正式に立退方を要求され、その後も被告人方が最も長期にわたつているため、係員からとくに要求されたこともあることが認められる。しかし、明渡を正式に要求されるようになつたのは昭和三二年春頃からであり、本件火災のあつたのは同年七月一六日であつて、同会社における社宅問題の解決がいかに急を要したからといつて、退職後引続き七年有余にわたり、居住してきた被告人の社宅が数ヶ月の猶予も与えられずに明渡を迫られていたものとは到底解することができないし、前記証人藤江立馬の尋問調書中にも同人は同会社総務課厚生係で社宅に関する事務を担当していたものであるが、「社宅の正式な明渡要求は二回している。一回目の要求(前記の該当者全員に対するものを指す)をしたのち、被告人が長鋪という人から土地を借りたと聞いたので再び同人を呼び要求したところ、家を建てる目安もついたからもう暫らく待つてくれと言うので、何時出るというように日を切つてくれと言つたが、総務課長がそうきつく言わんでもよかろうと言つたのでそのままになり、現在にいたつている」旨の供述記載が存し、すなわち、同会社の明渡要求も差程窮迫なものとは言えず合理的な猶予期間ないしは、被告人において他に住居を求める迄の期間を考慮した恩情味のあるものであることが明らかである。してみると、右要求後僅々数ヶ月のうちに発生した本件火災と被告人に対する前記要求との間に直ちに因果の関係を認めることは、他に大きな理由の存しない限り困難であるといわなければならない。

(三)  本件工場敷地の明渡を求められていた事情について、

証人伊与森定義、同伊与森君恵の各尋問調書ならびに当裁判所の検証調書の各記載によると、本件火災当時迄、本件工場の裏側すなわち、北側に沿つた約一米幅の小路を隔てて伊与森定義方居宅が建てられていたが、同人がその義兄から昭和二六年頃、本件工場敷地の贈与を受けた際に、被告人所有の本件工場は明渡すことになつている旨伝えられていたところから、その後二、三度被告人に対し、明渡を要求したことがあり、昭和三〇年夏頃、本件工場から小火を出した際にとくに強硬に申入れたこともあり、同三一年一一月頃、右伊与森定義が病床にあつた際にも工場の夜業の騒音に安眠を妨げられたので夜業を中止するよう申入れたこともあつた。しかし、同人方ではこれまで被告人からの他に敷地を物色しているから、それまで明渡を猶予して欲しい旨の懇願を無下に斥けたことはなく、被告人からの申出によつて、増額した賃料一、〇〇〇円も毎月欠かさず受領しており、むしろ、右伊与森定義の尋問調書中の「あすこに工場があるため、ひどく迷惑するというのであれば少々無理を言つても立退いて貰うが、別にそう迷惑するわけでもなく、先方としても商売をしているのだから立退いてくれと言いながらも引続き貸していた」旨の記載のとおりの状況であつて、とくにその間に差し迫つた状況は認められない。

(四)  本件工場の営業状態について、

次に、第八回公判期日における被告人の供述ならびに、証人高屋栄三郎、同森清の各尋問調書、第二回公判調書中の証人井上博文、同河田泰三の各供述記載、第三回公判調書中の証人川角正昭の供述記載を綜合すると、被告人経営の本件工場の経費は、正常な状態において、従業員六名分の給料約四、五万円、電気代五、六千円などでこれを合計すると、月額四五、〇〇〇円ないし、五六、〇〇〇円程度必要とするのであるが、同工場における主たる仕事は、前記のとおり、被告人が三〇有余年にわたり勤続した近隣の神島化学工業株式会社神島工場からの機械工事の請負、および各種部品の製作などの下請仕事であつたところ、同会社では、昭和三二年六、七月頃から不景気のため修理工事を差し控、新設事業を取り止める方針を採ることになつたため、いきおい本件工場に対する外注工事も減少したのであるが、本件工場における右機械工事の請負および各種部品の製作の各月毎の合計高は、

(1)  昭和三二年四月分、一七五、四六七円(期間は前月二一日から該当月の二〇日迄、以下同じ)

(2)  同年五月分、八五、三九五円

(3)  同年六月分、八〇、三三〇円

(4)  同年七月分、二〇、一五〇円

であつて、右のうちから被告人の出費となる材料費などを差引くと、五月分においては、従業員に対する給料電気代などを支払うと殆んど利益のない位であり、六月分においても大体同程度の営業成績であつた。(なお、七月分は、本件火災により中途で終つている)しかし、これ迄従業員に対する給料は定期に必ず支払われており、被告人としても、他に仕事を求めるため、本件直前頃府中市の北川鉄工所および笠岡市の笠岡工業株式会社などにその斡旋方を依頼するなど奔走していた矢先のことでもあり、営業不振のため一応最悪の場合を考えて工場閉鎖についても考慮をめぐらせたこともあつたにしても、それは一応の予測にすぎないものと考えられる。

そうして、景気の変動によつて、営業成績に差異を生ずることは、むしろ当然の事態であつて、このことはひとり被告人方工場のみに限られた現象ではない。まして、被告人は昭和二五年頃から前記会社の下請工場を経営しているのであつて、かような下請工場の経営についてはすでに多年の経験を有するものであるから予てから右のような事態に備えてその対策を練つていたものと思われるのである。現に、前年度においても、前記五、六月分と同程度の営業成績しかない月もあり、またこれ迄の営業状態からみて、一般的に毎年六、七、八月頃は仕事の少ないことが多い傾向があつたというのであるし、更に休業状態の多い月には従業員の給料などもこれに伴つて減少する筈であるから客観的にみても右の事態から直ちに工場を閉鎖しなければならないほど迄窮迫していたものとは思われない。

(五)  火災保険契約について、

そこで次に、本件の動機中の最も重要な保険契約についてその内容を検討すると、第四回公判期日における証人安原勝の供述および証人砂原勝己、同内山理の各尋問調書の記載ならびに、同証人作成の鑑定書謄本の記載を綜合すると、被告人は、昭和三〇年一二月富士火災海上保険株式会社との間で、本件工場建物につき、金額五〇万円、同機械器具一式につき金額五〇万円のそれぞれ期間を一ヶ年とする火災保険契約を締結し、同三一年一二月右契約期間の満了と同時にこれを更新していたこと、本件直後鑑定人内山理の鑑定したところによると、右建物は時価二一五、七〇〇円相当のものであり、右機械器具類は六〇六、〇〇〇円相当のものであるというのであるから、前記契約は、建物のみについていえば明らかに超過保険であるが、機械器具類についていえばこれと逆に過少保険になつているわけである。

そうして、右のほかに、本件工場には、右保険契約の対象となつていないところの工場内の動力設備、材料、机、椅子などおよび工場外に置いてあつた金床、ローラーなどがあり、これらは別途に加算されるべきものであるから、右価格を更に上廻るものとなるわけである。してみると、右保険契約は、これを実質的にみると、いわゆる超過保険の範疇に属さないものといわなければならない。もつとも時価とは取引生活における一応の基準にすぎないものであるから具体的な取引に際しては上下のあることは免れないし、場合によればこれを売却して換金するよりも、保険金を取得することの方がより利益なこともあるが、しかし、それかといつて、放火のような重罪を犯してまで、その利益を獲得しようとするからには、深刻なる動機とこれに対応すべき利得が予想される場合でなければならないのが一般である。しかるに、これ迄認定したとおり、被告人をめぐる種々の解決を迫られているところの問題は、すべて、金銭的なものに限られているのであるが、これが解決の手段として、本件公訴事実にあるような方法を選択することはその利益の僅少なるに比し、払うところの犠牲の甚大であることは疑うことのできないところである。しかしながら一面において、かような動機犯といわれるものの原因は極めて、個性に富むものであつて、本件において、被告人の置かれていた以上のような環境のもとにおいて、被告人が、放火の手段に訴えてまで問題の解決を企図する可能性が全くないと断言することもできないのであるから、次に右以外の点についても検討しなければならない。

二、合鍵の問題について、

証人宮原渡の尋問調書および同人作成の七月一六日附実況見分調書の各記載によると、本件工場南側の被告人および工員などの勤務時間中出入に使用する工場表出入口は、一間二枚の板戸で、そのうち、西側の一枚は、内側から釘を差込んで締め、東側の一枚は、これに打込んだ壼金と、入口東側の柱に打込んだ壼金とを南京錠をもつて施錠する仕組になつているが、火災当日、これが鎮火した後の午前七時過頃、司法警察員らが実況見分した際には、右板戸は締め立てたままの状態において、一方の壼金に掛つた南京錠(昭和三二年領第一一二号の一)が開錠された状況でその真下に落下していたことが明らかである。しかして、司法警察員作成の七月三一日附実況見分調書の記載によると、右鎮火後の状況において、前記表出入口を除いては、工場の西側、東側および北側の各開戸はいずれも施錠された状況にあつたものと認められ、また、被告人の検察官に対する八月二六日附供述調書および小川張平の検察官に対する八月二二日附供述調書の各記載によると、前記南京錠の鍵(同号の五)は常日頃被告人が携帯していて、朝夕自らこれを使用して該南京錠を開閉していたもので、火災のあつた前日も、その日の勤務を終えた工員らの帰宅した後の午後五時三〇分頃、被告人自身において、工場内部の戸締りの完全なることを確認したうえ、右南京錠を施錠して帰宅しており、次いで、同日午後一一時過頃、被告人の次男の張平が夜釣りからの帰途工場に立寄つて、戸締りその他内部に異状のないことを確めた際に右南京錠を握つてみて、施錠の完全になされていることを確認していることが認められるので、右の前日午後一一時過頃から火災当日の午前七時頃迄の約八時間の間に何者かによつて右南京錠が開錠されたことになり、この合鍵が常時被告人の所持するところのものであるので、右時間内に被告人によつて開錠されたもので、したがつて、被告人が深夜本件工場に立入り、放火したのではないかとの疑念を生ずるわけである。

しかしながら、

(1)  第三回公判調書中の証人小川京子の供述記載および被告人の第八回公判期日における供述によると、右合鍵は、昭和三一年七、八月頃には二個あり、その一個を被告人の六女京子に持たせていたが、その頃これを取り戻し工場事務室の被告人の事務机の引出に入れていたが同三二年一月頃、右引出を掃除した際にこれが紛失していることに気付いて従業員などに尋ねたが判明しないのでそのままになつていることが認められる。してみると当時右事務室内に出入した者のうち、何者かが右合鍵を所持している可能性が全くないではない。

(2)  被告人の各自白調書を除くと、前記南京錠の開錠された時刻が火災前日の午後一一時過から発火時刻である午前二時頃迄の間であることを確認するに足る証拠がない。もつとも証人山本章、同宮原渡の尋問調書の記載によると、当時神島巡査駐在所に勤務していた司法巡査山本章が火災当日の午前二時三〇分頃、火災を知ると同時に笠岡警察署にその旨連絡し、急拠現場に駈けつけ、火原捜査のため第一発見者を探したが、混乱のため判明せずそのうち、午前三時にいたり鎮火したので工場従業員である高屋栄三郎から大略の事情を聴取し、同六時頃、消防団員横谷徳義に依頼して現場保存のため本件工場の周囲に繩張りをさせたこと。同八時過頃に笠岡警察署の司法警察員宮原渡らが到着し、同九時過ぎか一〇時前頃に実況見分を開始し、その当初に前記南京錠が開錠のまま落下しているのを発見したことが認められるのであるが、右の鎮火時刻頃から後もなお燻焼している部分などに消防団員などが出入していたことも窺われるのであつて、その間に何者かが右南京錠に作為することも不可能ではない。

(3)  更に、本件工場は、昭和二五年頃建築された木造亜鉛鉄板葺平屋建(建坪一五、五坪)の比較的簡素なものであつて、工場表出入口東側は押上げ戸になつているが、その下端に四、五寸の間隙があり、若し強いて入ろうとするならば、そこから手を差入れて横棒に掛けられた鉄製の掛金を取り外し、押上げ戸を排して外部からの出入が可能であるし、北側火造場附近の出入口の開戸も外部から容易に開けられる状況にあり、また同事務室の西側に面して武者窓があり、その間隙から物を投げ込むことも可能であつたことは、第三回公判調書中の証人川角正昭の供述記載、証人高屋栄三郎の尋問調書の記載および、第八回公判期日における被告人の供述によつて明らかである。したがつて、前記表出入口以外の出入口から内部に立入ることも可能な状況にあつたものと認められる。

以上の事実を併せ考えるときは、司法警察員らの実況見分の当時前記錠前が開錠されており、その合鍵を被告人が所持していたことの一事を捉えて被告人が本件の犯人であると速断するわけにはいかない。

三、被告人の自白の任意性について、

ところで、被告人の捜査官に対する供述調書は合計九通あり、そのうち司法警察員作成のもの四通(うち一通は、業務上横領被疑事件に関するものである)のうち三通は、本件犯行を自白しており、検察官作成の五通のうち、三通は本件犯行を自白したものであるけれども、その他の二通はこれを否認していることが認められる。しかして、被告人は、第八回および第九回公判期日において、笠岡警察署では当初自分は放火していないと否認したが、捜査官から錠が開いており、鍵はお前しか持つていない、お前がしないで誰が開けるか、早く言え、言わないと身柄を拘束すると言われ、また、余り心配しなくても良い、はつきり言えば寛大にしてやると言われるので、当時胃が痛むし、拘束されては困るし、寛大にしてもらえるものと思い、自分が火をつけたと心にもない虚偽の自白をした旨供述しているので、先づ、右司法警察員に対する自白調書の任意性の有無について検討すると、

証人宮原渡の尋問調書の記載によると、笠岡警察署に被告人を呼出して取調べたのは、七月二六日、同月三一日および八月五日の三回で、その最初の取調の状況について、「火事の前に息子の張平が戸締りを見ている点や錠前が開いていた点などを話し、現在のところでは一応君がやつたとしか考えられんのだがと言うような話をしたところ、始めのうちは、知らんと言つておりましたがそのうち自分が火をつけたのだと自供しましたので、その時の模様を尋ねましたら、一体どの位の罪になるのかと言いますので、それは判らんがたいしたこともあるまいという様なことを話したと思う。それから胃の調子も悪いのだが、今日家に帰してくれるかと言うので、自分の一存にはいかんから署長に相談してみると言つて相談した」「昼食に何を食べるかと言つたら胃の調子が悪いので牛乳をとつてくれと言うので二本とつてやつたことがある」「調べた時間は、朝の九時頃から始めて、五時過ぎに出る連絡船に間に合うように調べたがその間昼食の時間には休んだ」「最初は、自分は寝ていたので火事のことは知らんと言つていたが、午後三時頃始めて自供した」「頭が変だとは思わなかつたが被告人は耳が遠いためちんぷんかんな返事をしたことが二、三度ある。被告人に聞えないときは、大きな声を出したこともある」などの供述があり、取調開始から六時間後に始めて自白していること、犯行自白後も身柄の拘束を受けることなく帰宅を許されていることを考慮すると右自白は警察官の大したこともあるまいという言葉に眩惑されたのではないかとの疑いもあり、また、当時六五歳の老令に達した被告人が胃の苦痛があるのに加え、大声で取調を受けたところから身柄の拘束されることを極度におそれていたのではないかとの疑いもあつて、被告人の公判廷における前記主張が全く虚構のものとも思われず、従つて前記警察における各自白は完全に任意性があるものとはいえないのでこれらを直ちに証拠として採ることはできない。しかし検察官に対する自白調書の任意性までも否定すべき資料は発見できない。

四、自白の信憑性について、

そこで進んで検察官に対する自白の信憑性について検討するに、

(一)  先づ、放火の手段方法などについて、検察官に対し自白するにいたる経過を知るためその自白の順序を追つて示すと、

(1)  七月二六日附司法警察員調書(司法警察員に対する供述調書を指す、以下同じ)では、「工場の中に入つて、何に火をつけようかと思つて工場の中を見ていましたらセーパーのところにペンキのついた布切だろうと思われるものがあるので、これを持つて事務所に入り、南角の腰板(窓の下)をベニヤ板で造つていたので、そこえ火をつければ良く燃えるだろうと思い、その腰板のところに布切を置いて、机の上に何時も置いてあつた大箱マツチを取つて、私が何時も机の中に煙草を入れていましたので、その煙草(しんせい)一本を取り出してマツチを擦つて、煙草に火をつけてその火を腰板のところに置いた布切につけた」となつており、

(2)  七月三一日附司法警察員調書では、「工場へ入るとすぐ工場の中央に据えてあるセーパーのところにあつたウイス(機械類を拭く布切)のよごれたのを足ですぐ西側にある事務所の南側の窓の下へ寄せた。何故事務所の南側の窓の下へこのウイスを持つて行つたかというと、窓の下の壁には薄いベニヤ板が打つてあり、ウイスには機械の油などがついていて、火をつければすぐ燃えると思つた。このように放火をする用意をして置いて、事務所の机の引出の中から煙草(しんせい)一本を出して机の上に置いてあつた大箱マツチのマツチで、いつたん煙草に火をつけ、燃えているマツチの軸をウイスのところへ持つて行き、ウイスが少し持上つて隙間ができているところに差込んだ」「このウイスは、機械掃除に使つたもので、この日はセーパーなどを塗つたペンキなどがついていたようで、量はカツターシヤツ一枚分位であつた」となつているのに、その後、

(3)  八月一九日附検察官調書では、「机の上に置いてあつたマツチを使い、セーパーの附近にあつたペンキを拭いたボロ布を集めてこれを工場事務所の東側の板壁のところに置いてそれに火をつけた」と放火の場所について重要な差異を生じ、次いで、

(4)  八月二六日附検察官調書になると、「機械の附近にあつたマシン油やペンキのついた布を集め、それを事務所の真中辺の工場との仕切りの板壁の傍らに置き、事務所の机の上の大箱のマツチをもつてそのボロ布に火をつけた。その附近には、応接セツトが置いてあり、木製のテーブルとビロード張りの椅子が二つ、それからそのテーブルの下に硬質ビニールの切れ端を入れた木箱が置いてあり、これらもすぐ燃えつくような場所にあつた。そのボロ布にマツチ何本使つてつけたものか、またそれからそこで煙草に火をつけたような気もしますが、その当時の私の気持は、ふわふわしたまるで夢遊病者のような精神状態でありましたからよく憶えておりません」と放火場所およびその周囲の状況について供述を附加したほか使用したマツチの数およびその場で煙草を吸つたかどうかについては、これ迄の供述と異り、当時夢遊病者のような精神状態であつたので記憶していない旨供述を修正し、更に、

(5)  八月二七日附検察官調書になると、「ボロ布の大きさは丁度タオル三枚位のもので、これを固くしてやつたものではなく、ふわふわとするようにしてやつた様に思う。そして、これを板壁の側に持つて行つて火をつけたわけですがこのボロ布は地面の上に置いたわけではない。これは前に申した応接用のテーブルの下に置いてあつた硬質ビニールの切り屑の上に置いたのです。したがつて、私としては、このボロ布の火が硬質ビニールの切り屑に燃え移り、そして板壁と机、椅子などに燃え移つたものと思います。なお、この応接用のテーブルというのは、脚は木の角で上はベニヤ板であり、そのテーブルは板壁にひつけて置いてあつたものです。なおビニール入りの木箱は、板壁から四、五寸も離れたところに置いてあつたのです」と、すでに前回の供述に現われており、それが放火個所の附近にあつた応接用テーブルの下に置いてあつたものとされていた硬質ビニールの切り屑が、今度は、ボロ布からの直接の媒介物となつているなど供述に著しい変更がなされていることが認められる。

また放火の時刻の点について、司法警察員に対する各自白調書には午前一時頃となつておるが、検察官に対する最初の供述である八月一九日附供述調書では午前二時頃になり、八月二六日附自白調書では再び午前一時頃となつておる。もつとも右時刻は何れも時計を見たわけではないので、はつきり時間は判らない旨述べられているのではあるが、検察官の取調において放火の時刻が一時間も変つておることが認められ、しかも検察官は公訴事実においてその時刻を午前零時三〇分頃と主張しているのである。

ところで放火事件における放火の時刻や場所およびその方法などは放火行為を説明する場合の重要な要素で、捜査官においても当然そのことは相当重要視すべく、また真実の行為者は行為後一ヶ月位の間では、かような点をかなりはつきり記憶しているのが通常で、供述の都度容易に変動するのは不可解である。もちろん供述者は常に自己の経験した事実を全部、しかもその真実を供述するものとは限らず、故意に虚偽の事実を述べたり、または一部をいんぺいし、あるいは思い違いや失念などの理由によつて、同一事実に関する供述内容を後日変更する場合のあることは容易に考えられるのであるが、もしそれらの理由によつて供述が変動するのであれば、そのことを合理的に理解できる何らかの資料がなければ、後日その供述の真否を検討し、果して何れの供述が真実であるかを判断するのに困難で、後になされた供述だけを無条件に真実のものとするわけにはいかない。本件について被告人の捜査官に対する自白の内容を見るに、以上のようにその重要部分について変遷があつて、検察官に対する最後の供述だけが真実であることを首肯するに足る資料は何ら認められないのであるから、右は果して被告人が真実経験したことを、自己の記憶に基いて供述したものかどうか疑問で、かえつて捜査官の意を迎えるために不用意に、その都度追及されるままに虚偽の供述をしたものではないかとも考えられ、その供述の信憑性に疑を生ぜざるを得ない。

(二)  硬質ビニールの燃焼の可能性について、

次に、八月二七日附検察官調書記載の方法によつて、硬質ビニールが燃焼するかどうかの点について検討すると、

第八回公判期日における証人小門久男の供述および領置してあるビニールの燃焼状況を撮影した写真一綴(領第一一二号の七)によると、同人は検察事務官であるが、本件工場東側軒下から持帰つたビニール屑(領第一一二号の六のビニール屑と同一のものと認められる)を検察官立会のもとに燃焼実験をした結果、木箱の中にビニール屑と油雑布を交互に積み重ね一番上にビニール屑を置き、右油雑布にマツチで点火したところ、油雑布に附着した油の火のため、右ビニール屑の一部が溶けはじめ、次いで漸次燃焼しはじめ、三七分経過後には、油雑布およびビニール屑の双方が燃焼し尽し、その間に右木箱にも燃え移り、その大部分を燃焼したことが認められる。しかし、第八回公判期日における被告人の供述および証人高屋栄三郎の尋問調書の記載によると、本件以前迄、本件工場内事務室に木箱に入れて置いてあつたビニールは、むしろ硬質ビニールの切れ端ともいうべきもので大体三〇糎四角のものやそれ以上の大きさのものばかりであつて、当時硫酸などを入れるタンクの張付け工事などに使用していたものであるが、これに使用した残りの屑は、工場東側の軒下や、事務所西側の軒下などに叺に入れて置いていたことが認められるのであつて、前記小門事務官の行つた実験に使用されたビニール屑とはその大きさに相当の距りがあり、また、被告人の右自白によると、ボロ布とビニール屑を交互に積み重ねていないのであるから、右実験の結果を直ちに本件にあてはめることはできない。

(三)  被告人の夜間における視力について、

被告人の視力については、大西降之作成の診断書によると、「病名」両眼遠視、老視、左鼻涙管狭窄であり、

(イ)  右眼視力〇、〇四(矯正視力〇、六凸二、五D)

(ロ)  左眼視力〇、〇六(矯正視力〇、五凸二、五D)

であつて、常時度の強い眼鏡二個を使用しており、昼間でも眼鏡なしで行動したことはなく、常に足許を見ながら歩いていたことは証人高屋栄三郎の尋問調書の記載および第三回公判調書中の証人小川博美の供述記載によつて認められるところであるのでこの点について、被告人の自白調書を検討すると、先づ、

(1) 七月二六日附司法警察員調書において、被告人は「工場の中に入つて、何に火をつけようかと思つて、工場の中を見ていましたらセーパーのところにペンキのついた布切だろうと思われるものがあるのでこれを持つて事務所に入つた」「工場を出る時錠を完全にしたかどうかはつきり記憶していないが、多分したように思う」「この錠前は帰る時完全にかけたと思いましたが、悪いことをした後のことで何分あわてていたので錠をしないで帰つたものと思う」と述べており、当夜眼鏡を掛けていたかどうかの点については触れることなく、当然に、布切は工場内に入つてからはじめて物色し、帰途錠前はかけたと思うということになつているが、

(2) 七月三一日附司法警察員調書においては、「工場の中にはその頃電気をつけてありませんでしたが、丁度その夜が月夜でありましたから工場の中の様子は良く判つたのです。私は工場へ入るとすぐ工場の中央に据えてあるセーパーのところにあつたウイス(機械類を拭く布切)のよごれたのを足ですぐ西側にある事務所の南側の窓の下へ寄せた」「南京錠を完全にかけたかどうかは良く見ていない。もつとも私は近眼と老眼と両方ありまして、工場へ入る時は、眼鏡なしで直ぐ開きましたが、出た時は多少あわてていたし、眼鏡を持つていなかつたから完全に南京錠をかけたかどうか良く見なかつた。」となつて、当夜眼鏡をかけずに工場へ行つたけれども月明りで工場内の模様が良く判り、錠前はかけたかどうか眼鏡がないので見なかつたことになり、次いで、

(3) 八月五日附司法警察員調書では、「私の火をつけた布切は、木綿で黒色に少し茶がかつたもので着物の布のようであつた。このことを良く知つているのは、昼間この布切を見ていたからである」と、布切については、すでに前日の昼間に見ていたことに変更し、

(4) 八月一九日附検察官調書では、「附近にあつたペンキを拭いたボロ布を集めて……」と工場内ではじめて物色したかのようになり、錠前についても「その際出る時鍵は閉めておりません」と錠を完全にかけたかどうかについては、はつきりかけなかつたと断言したが、次いで、

(5) 八月二六日附検察官調書でも、「機械の附近にあつたマシン油やペンキのついた布を集め……」と前記の工場内で物色した旨の供述と同旨となり、錠前については、「工場を出る時入口の鍵を閉めたかどうかも憶えません」と変更し、最後に、

(6) 八月二七日附検察官調書では、「その日は、月夜でありまして、私は、工場に行つて、電気をつけたわけではありませんが、工場の建物は庇が短かかつたので月明りで工場内は大体判りました、また七月一五日午後五時半頃、私はいつたん職人達が帰つてから工場に行つた折り、機械の足許あたりに機械を拭いたボロ布が置いてあつたのは見て知つていましたので私は眼が悪いのですがすぐ判つたのです。なお、私は眼が悪いと申しましても小さいものを見るのは不自由しますが、ボロ布のように大きくなればそう見るには不自由しません」となつている。右の各供述調書相互間にかやうな矛盾を生じた原因は、捜査官の取調時における犯罪行為に関する推測や被告人に対する態度等が変動するにつれて容易に被告人の供述も変動したもので、右捜査官の推測や態度等が被告人の供述を左右した結果ではないかとも考えられる。(なお、前記七月三一日附司法警察員調書には、「眼鏡を持つていなかつたから完全に南京錠をかけたかどうか良く見なかつた」とあるが、錠前や鍵は日頃使い馴れている筈であるから、その在り場所さえ判れば手探りでもかけられるわけであるし、まして、完全に施錠ができたかどうかについては眼鏡がなくとも容易に確認できる筈である)

ところで本件当夜の月明りの程度については、証人小川張平の尋問調書の記載によると、同人は当夜午後一一時頃の状況として、満月ではないがそれに近く、雲もなく明るい夜で、その頃工場の戸締りを見廻つた際には、工場表出入口と同西側の武者窓の隙間から裏口の戸締りの様子迄見えた旨述べており、証人二階堂コシカの尋問調書の記載によると、同人は、当夜午前零時四〇分頃本件工場前附近道路上を通行した者であるが、はつきりした月夜ではなかつた。足許もはつり見えないように思いながら帰つたように記憶する旨述べており、更に証人山本章の尋問調書の記載によると、同人は当夜午前二時三〇分頃に本件工場に駈けつけた者であるが、月明りはあつたがその明りだけで歩けるという程ではない。私は電池を持つて行つた旨述べており、また証人伴クニの尋問調書の記載によると、同人方は本件工場の東隣りにあるが、当夜パチパチという音に目を覚した夫に起されて外へ出た際には一面に曇つていた、それは月が隠れていたので曇つていることが判つたのである旨供述しているところからすると、当夜は、雲のない月明が続いたわけではなく、二階堂証人が通行した午前零時四〇分頃は足許もはつきりしない程度の明るさであつて、しかも同人と一緒に歩いていた西原スヾが本件工場附近においてすでに風呂でごみをたいた時にするような何かゴム臭いような臭気を感じていたのであつて、その時には既に本件工場内において可燃物が燻焼を始めていたものではないかとも思われ、右燻焼が引続き本件火災になつたものとすると、被告人が工場内に立入つたとされる時刻はこれより若干以前になるわけであるから、同人らの通行した頃の当夜の月明りのもとにおいては、前記のとおり視力の衰弱した被告人において、前記各供述のような行動をとることは困難ではなかつたかとも考えられる、なお工場入口の錠前をかけたかどうかについても真実被告人において、本件犯行に及んだものとすれば、いかに慌てていたとしても犯跡隠蔽の最も重要なる手段について、(しかも司法警察員に対する各供述調書記載のとおり、工場内で煙草を吸うほどに迄被告人が落着いていたとすれば)前述のような曖昧な供述をする筈がないものとも考えられるのである。

以上説示のように、被告人の自白は、その内容において、多くの疑いがあり、また他の証拠との矛盾もあるので結局その信憑性に乏しいものといわなければならない。

しかして本件火災が被告人の放火によるものであることを認むべき証拠は本件記録にあらわれたすべての証拠を検討するも、前記各被告人の自白調書を措いては他に存しないところであつて、しかも右被告人の自白はその信憑性に乏しく、又その裏付けとなるような証拠にも乏しいのである。

すると、被告人が本件犯行をなしたものであると認めることができないから、結局本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するので刑事訴訟法第三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする次第である。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 竹島義郎 藤原吉備彦 川端浩)

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